八水蒲鉾株式会社のある八幡浜市保内町は、宮内川と喜木川にはさまれた場所にあります。保内町川之石は、明治時代紡績業が盛んで、宇和紡績(のち東洋紡績)は、1887(明治20年)年愛媛県で最初に設立された紡績会社で、四国で初めて電灯が灯った事でも知られています。現在は赤レンガ倉庫だけが残り、東洋紡績の広大な敷地は、保内中学校、八興産業などになっています。八水蒲鉾株式会社もその一角にあります。
経済産業省の取りまとめた近代産業遺産の認定を受けた東洋紡績川之石工場の赤レンガ倉庫は、全国33ストーリーに入っています。また、宮内川の入り江では、2月~4月にかけてアサリを主とした潮干狩りが出来ます。この川は、伊予の青石で造られた矢羽根積(やばねづみ)の護岸が約300m続いています。平成15年6月14日に開通したウッドデッキの遊歩道は、幅4m、長さ約350mあります。この遊歩道は「もっきんろーど」と呼ばれ、琴平地区・本町地区の歴史ゾーンを結び、町内外の憩いの場所となっています。
金毘羅神社の春は二百数十段に及ぶ石段が、桜のトンネルになるほどの桜の名所としても有名です。4月13日には「さくら祭り」も毎年開催されています。秋には紅葉の名所に変貌します。
次に、保内町3英傑を紹介します。
富澤赤黄男{とみざわ かきお(1902~1962)}は、新興俳句運動の第一人者です。代表句、「蝶墜ちて大音響の結氷期」が書かれている句碑があります。
富澤赤黄男は「俳句は詩である」と主張しました。どのように解釈するかは百人百様で、ましてや赤黄男の超現実化した俳句においてはなおさらであったろうと思われます。幾多の波にも信念を曲げることなく、自分の俳論を貫きとおした俳人でありました。富澤赤黄男の偉業を称え、毎年赤黄男の忌日、3月7日前後に『富澤赤黄男顕彰俳句大会』が開催されています。
二宮 敬作{にのみや けいさく(1804~1862)}は、江戸時代末期の蘭学者・医学者で、特に医学・薬草の研究に優れた業績を残しました。日本初の女医となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られています。
敬作の生まれた八幡浜市保内町磯崎(いさき)には、国道沿線に二宮敬作記念公園がつくられています。日本人としてはただ一人ライプチッヒ版ドイツ百科事典に「日本の俊才、二宮敬作伝」としてその名を留めています。
前田山 英五郎{まえだやま えいごろう(1914~1971)は、大相撲の第39代横綱です。本名・萩森 金松。愛媛県西宇和郡喜須来村(後の保内町、現在の八幡浜市)の出身です。身長181cm、体重120kg。張り手をまじえた猛烈な突っ張りで戦中~戦後の多難な時期を強豪大関として支え、その功労に報いられる形で横綱を免許されたましたが、いわゆる「シールズ事件」で晩節を汚しました。{昭和24年(1949年)10月場所(秋場所だが大阪で開催された)、初日力道山に勝ったのみで、その後5連敗を続け7日目より大腸炎を理由に休場し帰京した。休場届けを協会に提出した10月15日に後楽園球場へ行き、当時来日していたサンフランシスコ・シールズ(3Aのチーム)と巨人軍の試合を観戦、オドール監督と握手する写真が新聞に出て批判が集中した。本人は14日目以降は土俵入りし、千秋楽には取組を行なうことを希望したが認められず、責任をとる形で引退した(シールズ事件)}。横綱としてのイメージ、あるいは高見山の師匠としての「大相撲の国際化の先鞭をつけた親方」のイメージが強い人でした。
龍潭寺の指定有形文化財の庫裡(くり)(住職の居室)は、明治初期の創建で、寺の格式にふさわしい精巧な造りです。本堂は畳100畳の広さをもち、400年の歴史があります。境内に「水かけ石」があり、火事を庭石に水をかけ消したという伝説が残っています。境内の下には、人が歩けるトンネルもあります。また石原慎太郎家の菩提寺としても知られています。
鉱山業や紡績業で財をなした明治30年代に建てられた旧白石和太郎邸は、明治30年代頃に建てられた、外観はギリシャ建築を思わす様式です。縦長スライド窓の回りには、きめ細かいヨーロッパ風彫刻の装飾が施されています。玄関の天井飾りには世界地図、2階の天井飾りには果物カゴの形が装飾されています。明治時代の繁栄の歴史を物語るシンボル的存在でもあります。
2003年の冬から、「電灯のまちから始まる歴史」にふさわしく、たくさんのイルミネーションが町を彩り保内町を明るくしています。
このように文化のかおる保内町で八水蒲鉾株式会社は、日々おいしいかまぼこ作りに励んでいます。 |